週刊読書マラソン

積読消化をめざすささやかな悪あがきの記録

佐藤翔『教養としての査読』

週刊読書マラソン第42号は、佐藤翔『教養としての査読―なぜ「論文」を信用できるのか』(中央経済社、2026年)です。仕事柄査読とは無縁ではいられないものの、分野によっても慣習が大きく異なる査読について気になって読みました。

 

 

本書の面白かったところ、新しく学んだところ

個人的には、査読の信頼性とオープンアクセスをめぐる問題(とりわけAPCの高騰と即時オープンアクセス化)に関心がありました。なので、4章の査読のなかのバイアスと、6章のAPC高騰と即時オープンアクセス化の議論は特に興味深く読みました。不勉強極まりないのですが、APCと購読料の相殺システムはこれまで知らず、調べてみると勤務校にも制度としてあるようなので今後利用しようと思いました。即時オープンアクセスについては、まだまだどう展開するか雲行きが読めないところだと感じました。

事前の問題意識とは異なるのですが、3章の査読者が見つからない問題と5章のハゲタカジャーナルは、純粋にそういう世界があるのだなと勉強になりました。前者については私のキャリアだとまだまだ査読者をすることも探す側になることも先なので知らなかったです。後者は、分野的に馴染みが全然ないので恐ろしい世界だ……と他人事ながら感じました。看板を頻繁に付け替えるぼったくり居酒屋を彷彿とさせられました。

最後の7章のオープン査読は、よその分野ですが社会学の『ソシオロゴス』などは少し近いかもしれないですね。また、査読付きプレプリントなどは画期的な試みだなとは思いつつ、大学の採用・昇任人事において査読論文が影響力をもたなくなっているわけでもないので、自分の分野だとまだまだ気が遠くなる話のような気がしています。

ティファンヌ・リヴィエール『博論日記』

だいぶご無沙汰してしまいました。本は趣味のものもそうでないものも読んでいるのですが、専門にあまりにも近いものは身バレしそうだったり、逆に趣味の読書は気にいったものであればあるほどとりとめもないものが溢れ出しそうだったりして、筆が進みませんでした。あまりきちんと書くことを意識しすぎずに続けていきたいところです。

さて、そんな久々の週刊読書マラソン第41号は、ティファンヌ・リヴィエール『博論日記』(花伝社、2020年)です。漫画をこのブログで取り上げるのはたぶん初めてだと思います。

 

 

本書の面白かったところ、新しく学んだところ

博士論文は誰しも苦労するもので、人文社会科学系だととても3年で書くのは難しいよね……というのは日本と重なるところがあったのですが、それはそれとして日本とは異なる厳しさも色々と垣間見えて、面白いというよりかはなかなか胸が苦しくなる本でした。

個人的にもっとも強く印象に残ったのは、フランスにおいて大学教員になることが非常に狭き門である一方で、一度なってしまうと非常に特権的な職業であるというところでした。もちろんコミカルかつシニカルに描いているところもあると思うのですが、講義のために週1回(!)出校した教員を捕まえない限りは面談もおぼつかないし、原稿をメールしても全然読んでくれない(しかもメールの文体にはやたらうるさい)し、ろくな指導はしてくれない、そのくせ最後の口頭試問のときには大きな壁となって立ちはだかるという、現代の日本だったら指導放棄型のアカハラと言われかねないような所業の嵐でした。こんな大学院だったら、私は絶対に学位を取れなかった自信がありますが、逆にいうと指導教員を奮起させるような研究でないとちゃんと指導してもらえないということ自体が大きな試練なのかもしれません。

あとはアラサー/ミドサーになって周りの友人や親戚のライフステージが変わっていくのについていけなくなること、そして何より最後のシーンで晴れて学位を取得することになっても、主人公の目にはもはや光がなかったことも心に残りました。ただ、訳者解説によると、博士課程を中退してもフランスは生きていくのにそこまで苦労はしないそうで(実際原著者も博士課程を中退して漫画家になっています)、そのあたりは日本とまた空気感が違うのかもしれません。

こういう漫画のことをフランスでは、バンド・デシネというそうで、それも初耳でした。

 

えーじ・倉林雅・小岩井航介『パスキーのすべて』

1月末に駆け込みで、明けましておめでとうございます(?)。週刊読書マラソン第40号は、えーじ・倉林雅・小岩井航介『パスキーのすべて』(技術評論社、2025年)です。技術書は初めてですね。

 

 

本書の面白かったところ、新しく学んだところ

最近のWebサービスでは二要素認証が一般化してきましたし、特に昨年は証券口座の乗っ取りが話題になりました。ここ数年で見かけるようになったパスキーが身近になってきたものの、そもそもどういう技術なのかがなんとなくしかわかっていなかったので知りたいと思い、本書を手に取りました。

UX設計や実装は専門ではないので後半は斜め読みになってしまいましたが、序盤での他の認証と比べたときの優位性の解説が腑に落ちました。セキュリティと利便性の釣り合う仕組みを作る技術者の皆さんの努力に頭が下がりました。

最近では私もパスキーを使うWebサービスが増えましたが、パスワードよりも手軽でセキュアなのはいいなと思います。対応サービスがもっと増えるといいですね。

キャサリン・ロッテンバーグ『ネオリベラル・フェミニズムの誕生』

週刊読書マラソン第39号は、キャサリン・ロッテンバーグ『ネオリベラル・フェミニズムの誕生』(人文書院、2025年)です。今年出た本なのに、4月期ドラマの『対岸の家事』が訳者解題に出てくるのでびっくりしました。

 

 

本書の面白かったところ、新しく学んだところ

本書は2010年代の米国で隆盛する、いわゆる「バリキャリ」女性が私的領域を諦めずに「すべてを持つ」ことを志向するタイプのフェミニズムを題材に、それをネオリベラル・フェミニズムとして捉え、そのメカニズムを明らかにしています。日本でもSNSでワーママと専業主婦が激しく対立しているのを目にすることは日常茶飯事であり、(その対立そのものが意義のあることかは置いておいて)テーマとしては馴染み深いものといえます。

個人的に興味深かった章は2つあり、ひとつは『リーン・イン』を例にネオリベラル・フェミニズムのロジックのすり替えを詳らかにする2章でした。社会を批判する回路を退け、自己批判に持って行く手口はまさしくネオリベラルといえるものですが、他方でそれは再帰的な社会の中で「よりよく」生きるあり方とすごく相性がいいことに合点がいきました。

もうひとつは、専門職女性によって書かれたマミー・ブログを分析対象とした4章でした。肯定的な情動を動員する自己のテクノロジーも確かになあと思わされましたが、特権階級の女性たちが自分たちの特権を認めつつ、しかしそれにもかかわらず構造的な差別や不平等を不可視化するレトリックが特に具体的で興味深いものでした。

6章で筆者自身が書いているように、本書は特にこれといった明瞭な結論が導かれるタイプの本ではありません。ただ、本書がネオリベラル・フェミニズムを「こんなものはフェミニズムではない」と排除するのではなく、それが「フェミニズム」を掲げていることを重視し、むしろ正面からネオリベラル・フェミニズムとして定位したうえで、その論理を明らかにしたうえで批判するというのはいたって誠実なように思いました。トランプ旋風に対する応答などもそうですが、実際に起こっているムーブメントを「反知性主義」や「ポピュリズム」として退けるのは単なる逃避でしかなく、本書のようにむしろこれだけネオリベラリズムは浸透しやすい強敵なのだということを直視しなければ話が始まらないのだと切に感じます。

駆け込みで大晦日の夜の投稿になってしまいましたが、今年もなんとかある程度定期的に更新することができました。タイトルを「月刊」にしようか迷うところですが、1ヶ月に2回更新したくなることもあるかもしれないので、もうしばらくはこのままでいきたいと思います。それでは皆さま良いお年を。

箕面在弘『自分のあたりまえを切り崩す文化人類学入門』

週刊読書マラソン第38号は、箕面在弘『自分のあたりまえを切り崩す文化人類学入門』(大和書房、2024年)です。本書は大和書房と早稲田大学のコラボによる「未来のわたしにタネをまこう」というシリーズの1冊です。私は同じシリーズでは以前に仲道祐樹『刑法的思考のすすめ』を読んだことがあり、2冊目になります。

 

 

 

本書の面白かったところ、新しく学んだところ

この大和書房と早稲田大学のコラボは初学者(大学生のみならず高校生くらいも想定されているように見えます)を対象としているのですが、入門にしては結構エッジが効いているイメージがあり、読み応えがあって面白いです。本書も例外ではありません。

どの章も面白かったですが、個人的に興味深かったのは、3章の贈与と負い目と、4章の汚穢と禁忌、6章の宗教と宗教心、7章の呪術と科学、8章の民族とエスニシティあたりでした。3章は贈与に伴う負い目を回避するさまざまな慣習が面白いですし、6章〜8章あたりは純粋に勉強になることが多かったです。特に8章の民族とエスニシティの話は、自分の専門とも重なるところがあり、これまでの不勉強を恥じるレベルです。

あと最後の9章での「あたりまえを切り崩す」主体が本人ではなく文化人類学の側にあるという話もうなずけました。何かと「あたりまえを疑う」ことがもてはやされがちですが、我田引水に自分の主張を通すために学問をするのではなく、対象世界と徹底して向き合うなかで受動的に自分のあたりまえが切り崩されることこそが重要なのだということは、他の学問についてもいえそうな気がします。

山田風太郎『戦中派不戦日記』

週刊読書マラソン第37号は、山田風太郎『戦中派不戦日記』(講談社、1985年/新装版2002年)です。珍しく「週刊」のタイトルに恥じない更新頻度になりました(?)。戦後80年の節目ということもあり、前々から気になっていたこの本を夏ごろからちびちび読んでいました。

 

 

 

本書の面白かったところ、新しく学んだところ

印象に残った点は多々あるので取りとめがなくなってしまいそうですが、まずは城南大空襲の存在を初めて知りました。東京での空襲といえば3月10日の東京大空襲が広く知られているところですが、東京南部に住む筆者はこの空襲で直接被災したわけではありませんでした。それが、5月24日未明の城南大空襲ではいよいよ家を失う被災当事者となることとなり、ここで初めて2週間ほど日記が途絶えることになります。城南大空襲が死者の数が東京大空襲と比べて少ないためにクローズアップされることがやや少ないようなのですが、私の今住んでいる地域もどちらかといえば城南に近いこともあり、恥ずかしながらそのような歴史に初めて向き合うこととなりました。

「不戦日記」というタイトル通り、上記の城南大空襲の時期を除けば、筆者のスタンスは戦況と一定の距離を保っていて、どこか冷めた印象を受けます。果たして本当にこの戦争に勝てるのか、政府の方針は妥当なのかについての筆者の視点はかなり冷徹なところがあります。また、アパートが焼けてもゲラゲラ笑っている友人や、空襲が行われている最中でも気にせず荷運びを続けたエピソード、今の感覚だと驚くような原爆ジョークなど、日常には不謹慎なまでの滑稽さが至るところにあったという事実も残されています。また、東京医科大学の学生という視点もあり、例えば授業をせず余談や演説ばかりをする大学教授の姿など、古き大学ののどかな様子も伝わってきます。個人的には敵国であるアメリカのルーズヴェルトに哀悼を捧げる新聞や筆者にも驚かされました。

他方、そんな軽妙な本書のスタイルが、筆者のようなスタンスの人間でもなお戦争から逃れられなかったことを逆説的に浮かび上がらせている側面があります。思わしくない戦況であってもナショナリズムを鼓舞してやり過ごすしかなかったり、5月には調味料を始めとする物質が東京で尽き始めたり、ソ連が宣戦布告する頃には運命に対する諦めとして笑うしかなかったり。終戦間近には、筆者でさえも「精神論」としか言いようのないようなありがちな教育論(出る杭は打たれる教育批判など)を繰り広げ、あと3年辛抱すれば光明が見えてくるのではないか、みたいなことを言い出しています。ある種の「傍観者」として生き延びたとされる筆者でさえも、敗戦を座して受け入れることが難しい当事者の一人であったことに、戦争の影響力の大きさをかえって強く感じました。

小林昌樹『立ち読みの歴史』

週刊読書マラソン第36号は、林昌樹『立ち読みの歴史』早川書房、2025年)です。同じ著者の『調べる技術』を読んだことがあったので、手に取りました。

 

 

本書の面白かったところ、新しく学んだところ

本書はそのタイトル通り読書史として読める本ですが、同時に著者がレファレンスの専門家であることからもわかるように、レファレンスの実践例として読むこともできるところがユニークです。特に中盤の「立ち読み」の概念の切り分けなどは、調べごと全般に役立ちそうなスキルです。

雑誌店と書店の歴史についても特に明るくなかったので勉強になりましたが、海外の書店では一般に雑誌が扱われておらず、「立ち読み」という習俗が存在しないという比較文化的視点が個人的には興味深かったです。

あとは、昔の人たちは「読む」=音読であったことや、今やマンガ本などでおなじみのシュリンクパックが意外と歴史が浅い(とはいえ私が生まれる前からはある)ことなども楽しく読みました。また、現在SNSや書店サイトで広がる「試し読み」を「立ち読み」の変質ないし衰退として捉える論もうなずけるところがありました。

本書のWeb上でのレビューを読むと、記述があっさりしていて物足りないという意見も目にしたのですが、私個人としてはさくっと読めてちょうどいい本でした。